えーっと、、、こないだ絵の予告してたけど、まだ書き終わってないんで、違うねたで。
今日は戦国時代だといろいろあったわけ。
まず、1541年。
尼子経久死亡。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・あれ?
みんな無反応??
あ、そっか。。。みんな尼子経久しらねぇよなぁそりゃぁ。。。
まぁ、、オレが勝手にニックネームつけると、「下剋上の父」です。
えーっと、1488年かそこらに、主君の守護大名、京極氏を追うんです。
応仁の乱が起きてから、初めての、大規模な下剋上がこれ。
次は、、、1563年
細川忠興が生まれる。
これは知ってる人いるんじゃねぇかな??
えーっと戦国無双2猛将伝持ってる人はわかるかもしんない
ガラシャの夫ですこの人
お、わかった人増えたかな??
ガラシャがわからん人は、知りたければ自分で調べてください。
後は、織田家と武田家が同盟結んだくれぇかな??
今日は何の日でしょう???
このタイトル見ただけでわかったらまぁまぁすごい
えぇっと、天下人豊臣秀吉が亡くなった日です。
秀吉は、、、説明しなくても大丈夫だよね!?
元は百姓の子で、信長につかえて、信長の死後天下統一したって
これぐらいはOKだよね。。。??
死んだのは62歳だそうな
戦国時代では、、、まぁまぁ長生きなほうかな??
まぁ家康には勝てそうにもないけど
それで、題名の意味は、秀吉がなくなる前に、
伏見城で読んだ句、いわゆる辞世の句ってやつ
「露と落ち露と消えにし我身かな 浪速のことは夢のまた夢」
どういういみだろぉね。。。
前半部分は、人生あっという間見たいな意味なんだろうか??
後ろはわかんね。
まぁみんなで黙祷でもしようか。
黙祷。(-人-)
おひさの更新です
さて、仙石秀久のつづきです。
1570年、浅井・朝倉VS織田・徳川の姉川の戦いが起きます。
では、姉川の戦いについて簡単に。
1570年の6月28日、織田・徳川連合軍およそ3万、
浅井・朝倉連合軍1万8000が、姉川をはさみ対峙する。
徳川軍が朝倉に攻撃したのを皮切りに、戦いが始まる。
信長は、13段の陣構えを取ったが、浅井家の精鋭部隊の磯野員昌軍が、
そのうちの11段まで突き破ってきた、後詰(※1)に来た稲葉一鉄の活躍により、危機を脱する。
一方、徳川軍も、榊原康政の奇襲により、大群を有していた朝倉が破られる。
これによって、浅井も崩れ、敗走し、織田・徳川連合軍の勝利となる。
その中で、仙石秀久は、浅井の武将(※2)山崎新平を討ち取り、4年後1000石を与えられる。
つづく
※1・・自軍に対して、援軍を出すこと
※2・・仙石家の書によると、浅井の兵と表記されてるため武将であったかは不明。
H/K もうすぐ体育祭です。
とても憂鬱です・・・・(ーー;)
自分足遅いのに、400mに出るはめに・・・
はぁ・・・・
まぁとにかく、オレσ(□。□-) ががんばれる、ムカデ競争を頑張るだけです。
ムカデは勝つぞー!!
ナがニィーの答えでほぼあってますが・・・
×千石原→○仙石原です。
あそこは、秋になるとススキが綺麗ですが、この季節はなんにもありません。
戦国時代に関係があるといいましたが、石碑もなーんにもありません
では、何で戦国時代に関係あるんでしょうか・・?
それは、小田原攻めの際、大手柄をあげた仙石秀久が奮闘した地でもあり、
その苗字に由来してつけられました。
次回から、何回かに分けて仙石秀久の紹介をしま~す。
GWは旅行に行ってたため更新できなくてすいません
ところで、先日開いた「戦国 THE よっしー」ですが、2個のブログを同時に更新する暇がなく、
また、戦国ネタだでけでブログをやっていくのはきついと思っい、営業を停止させていただきます。
戦国ネタについては随時このブログで更新していくつもりです。
桶狭間の戦い。信長が世に名を知らしめた戦いです。
そこでいろいろと資料を調べていると、異なった二つの情報があります。
それが、今川義元の本陣の位置です。
桶狭間の名の通り、谷に陣を構えたというのと、
山に陣を構えたというこの二つです。
自分は山派に賛成です。
いくら余裕があっても、谷に陣を構えるほど馬鹿ではないと思います。
そこで、本陣が山or谷をコメント欄にて受け付けます。
めーるでもOKです yoshi27@1mg.jp